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令和6年能登半島地震 その他 3 11を忘れない

【連載】Vol.7 被災後の職場におけるメンタルケア

今日11日は東日本大震災の月命日です。毎月11日にお届けしている連載「災害に備える」の第7回目は「被災後の職場におけるメンタルケア」。能登半島地震の被災地で働きながら尽力する被災者の皆さんへ、2011年の東日本大震災で被災したCivic Forceの小野寺幸恵から、今こそ必要な“心のケア”の大切さについてお伝えします。

心が壊れてしまう前に

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今回の防災コラムのテーマは「職場におけるメンタルケア」。これは被災者であった私が実際に経験し、その必要性を強く感じた支援の一つです。能登半島地震の被災地では発災から1カ月以上が経過し仮設住宅への入居が始まるなど、被災者のみなさんの環境が大きく変わる時期を迎えています。こうした中でも働き続けなければならないエッセンシャルワーカーの方や避難所でお世話役をされている方々などが抱えるストレスは日々増大していることでしょう。自分でも気づかないうちに心が壊れてしまうこともあります。そうならないためにどうしたらいいのか、私の経験をもとにお話します。

同じ被災者でも状況はそれぞれ異なる

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私は、東日本大震災で被災したとき、特別養護老人ホームで事務職員として働いていました。

震災当日、私たちは施設の2階へ全員無事に避難し難を逃れましたが、迫りくる火災や爆発音などで生きた心地がしませんでした。発災翌日の12日、避難した高台の中学校の体育館は逃れてきた人で溢れ、冷たい床に体操用のマットが敷かれただけの過酷な環境......。いつ家に帰れるかもわからない中で数日間過ごしました。

その後、同じ法人が運営する被災をしていない施設に入居者と職員が分かれて避難することになりました。そこには家が被災した人、家族を亡くした人、そして私のように津波や火事を目の当たりにした人などさまざまな立場の職員がいました。津波や火事の現場には居合わせず被災していない人もいます。こうした異なる“被災経験”の違いが、後々大きく影響していくことになります。

急激な環境変化とストレスが生む溝

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避難した当初は、泥の中から拾い上げた書類を乾かして整理したり、連日届けられる物資の仕分けや配布をしたりといった作業に追われました。施設内はまるで野戦病院のようで、部屋に入りきらない人は廊下やホールにベッドを置き、衝立(ついたて)で目隠しをしながら寝泊まりしていました。環境の急激な変化に適応できず認知症が進んだり衰弱したりする入居者の姿に心が痛みました。「どうして私たちがこんな目にあわなければならないのか」と、ぶつけようのない怒りが込み上げてきました。

状況が落ち着いてくると、規模を縮小しながらも通常業務を再開。このタイミングで、被災した職員は被災していない避難先の施設への異動を命じられました。私もそれまで一緒に乗り越えてきた上司や先輩と離れ、ひとりだけ別の施設に配属となりました。

それまで無我夢中だった私は、異動が決まりふと落ち着いたころに「ひとりぼっちで放り出されてしまった」という孤独を感じるようになっていました。表面上は仲良く話をしていても、どこか壁をつくってしまい心を開くことができません。他方、施設内では「利用者へのケアがうまくいかないのは、避難者が増えたせいだ」といった不満が、日を追うごとに聞こえてくるようになりました。

それまでその施設で働いてきた人にとっては、突然避難者を受け入れることになった上、経験や考え方が異なる職員と働かなければならず、大きなストレスとなっていたのです。職員の間では徐々に温度差が生じ、だんだん相手のことを理解し思いやることもできなくなっていったように思います。ストレスは職場の中にどんどん増大していきました。

不眠、食欲不振...自分自身の変化に戸惑う

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慣れない職場で必死に仕事をするうち、数カ月ぶりに会った同僚から「あれ?また痩せました!?」と声をかけられました。「そんなことないよ」と言いましたが、私の体重は数キロ減っていたのです。理由は食欲がなかったからですが、食べられなくなった背景には不眠の影響があったと思います。

震災後しばらくの間、停電が続き、夜はろうそくの火を頼りにラジオで情報を得るという生活をしていました。暗い部屋の中で、ラジオからは死亡者や行方不明者の名前を読み上げるアナウンサーの沈痛な声が聞こえてきて、「どうしてこんなことになったのだろう」と答えのない問いを続ける日々。「たくさんの人が亡くなったのに、なぜ自分は生きているのか。生きる価値のある人がたくさんいたのに、どうして私は生かされたのか......」。悲しくて、苦しくて、やりきれない思いでいっぱいになりました。それ以来、私は暗い音のない部屋が怖くなりました。暗闇の中からあの時のように死亡者や行方不明者の名前を読み上げる声が聞こえてくるような気がして眠れず、今も暗い部屋では音なしで寝ることができません。

私の変化はこれだけではありませんでした。それまで当然のようにこなしてきた仕事がうまくいかない。以前の職場とは異なる会計処理の仕方に戸惑い、教えてもらってもなかなか頭に入らない......そんなことが多くなりました。きちんと仕事をこなそう、正確にやろう、そう思ってがんばってはいるものの、自分の意志に反して何もかもがうまくいかない。周囲は私のことを「怠けている」と思っていたでしょう。そう思われることも大きなストレスでした。「なぜできないのか」と言われても、その答えを持ち合わせていたのなら私はこんなに苦しんでいない......そう心の中で叫び続けました。

そして震災から1年ほど経った頃、体重も10キロ近く減り、「自分は何かがおかしくなってしまったのかも…」と思いはじめ、心療内科の受診を決めたのでした。(次回に続く)

 

<次回予告>

災害という非常事態でも、人の命を預かる職場であれば、なおのこと休めない人が多いと思います。そのような中で、自分自身の変化に気づくことは容易なことではないでしょう。そばにいる人が気づいて声をかけることが望ましいですが、誰もが過酷な環境の中にいてストレスを抱えている中では難しく、気づくのが遅くなってしまいます。では、どうすれば心が壊れるといった事態を防げるのか。次回のコラムでは、私が自分の経験を通して感じたこと、ぜひ実践してほしいことをお伝えします。

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