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活動報告

被災地を支援する

2012/07/19

震災の記憶を後世に伝える復興まちづくり――北海道南西沖地震の経験から

珠島の丘からの景色.JPG

函館空港から飛行機で約30分、日本海に浮かぶ北海道最西端の島「奥尻島」――豊富な水産資源と美しい自然を有することから、「夢の島」「北海道の秘境」などとして知られています。一方、奥尻島は1993年7月12日に発生した「北海道南西沖地震」で、当時の人口約4,000人中198人が亡くなり、重軽傷者143人、被害総額約664億円に及ぶ甚大な被害を受けた島でもあります。未曽有の大災害から3カ月後の93年10月、奥尻島では「復興対策室」が設置され、国や北海道の支援を受けながら、「生活再建」「防災まちづくり」「地域振興」の3つを柱とする復興基本計画を推進してきました。

そんな奥尻島の復興まちづくりの経験から学ぼうと、2012年7月上旬、東日本大震災で被災した宮城県気仙沼市主催の2泊3日の視察研修が実施さじれ、Civic Forceも参加しました。奥尻島と同じく「観光」と「漁業」のまちを標榜する気仙沼市では、2011年10月に公表した「震災復興計画」で、重点事業の一つとして「観光」を挙げ、市内外の有識者や観光関係者とともに観光戦略会議を定期的に開催。現在、観光を軸にした復興まちづくりの基本方針確定に向けた話し合いを進めています。震災直後から気仙沼を含む各地で緊急支援活動を展開し、その後も継続的に同市を中心とする復興まちづくりをサポートしてきたCivic Forceは、この観光戦略会議において、議事録の取りまとめや他市町村の観光基本方針調査、外部視点からのアイデア提供などの形で協力してきました。今回の研修への参加は、Civic Forceが今年7月から開始した中長期復興支援事業の柱の一つである観光支援事業の一環です。

役場職員の説明.JPG

気仙沼から陸路・空を乗り継ぎ、ようやくたどり着いた奥尻島は、一見19年前の震災が嘘のように美しい自然が広がる島ですが、ひとたび町を歩くと沿岸部には避難用の階段、避難路への誘導のための蛍光灯や案内板、防潮堤など震災の記憶を生かした防災まちづくりを徹底しているのが分かります。視察ではまず、奥尻町役場の方から、島の最南端に位置し島内で最も被害の大きかった青苗地区を案内してもらいました。また、災害の記憶と教訓を後世に伝えるため2001年に設立された奥尻島津波館や、徳洋記念緑地公園内の丘に建立された慰霊碑「時空翔」、盛土をした稲穂地区、初松地区の町並み、高さ11メートルの防潮堤、「奥尻21世紀復興の森」などを視察しました。島では雄大な自然資源と防災教育を組み合わせた体験型のプログラムを打ち出して、島外の観光客の呼び込みに取り組んでいます。役場や観光協会の方の話を聞きながら、震災から復興を遂げた奥尻島の観光面での課題や現状に関する理解を深めました。

奥尻島民と気仙沼市民との意見交換会では、復興まちづくりに向けて、震災の記憶をどう後世に伝えていくのかに焦点が当たりました。「奥尻島では震災から19年が経つが、震災を知らない次の世代へどう震災の記憶を伝えていくか」という研修参加者の質問に対し、奥尻島町役場の方からは、「生の声で被災の経験を伝えることに力を入れている」と言います。語り部やガイドを養成したり、外部視察者と島民が参加する防災ロールプレイやグループディスカッションを実施することで、震災の記憶を後世に伝えていくことに努めているそうです。

防潮堤を見上げる.JPG

また、現在、観光物産店で働く女性販売員は、「震災後4年間は土木業で生計を立てていた。被災して何もなくなってしまったけど、何とかなるって思ってがんばったら何とかなったよ」と話していました。こうした声を聞き、気仙沼の参加者は「力をもらった」「人口3,000人の奥尻がこんなに頑張っている。気仙沼も頑張れるんじゃないかと思った」と言います。壊滅してしまった町から復興を遂げた奥尻島の人々との対話は、これから復興に向かう気仙沼のまちづくりに前向きなエネルギーを与えてくれています。

10年後、20年後のまちの姿を決める震災後の観光戦略。将来を見据えた復興まちづくりをサポートすべく、Civic Forceは引き続き被災地の人々とともに考え、行動していきます。

 

 

 

 

時空翔慰霊碑.JPGのサムネール画像

徳洋記念緑地公園内の丘に作られた慰霊碑「時空翔」